昭和40年11月17日 夜の御理解 ●×2


 前にあの、ちょっとこの「金光青年」という雑誌をちょっとみせて頂いておったら、沢山の人を相手に、えー「青年の生活と意見」と、んー「全国青年信徒信心実習会におけるアンケート結果」というのが出てるんです。その中に、「好感の持てる人物」という事に対して、皆さんがもうそれこそわがまま、わがまま、様々な意見を書いてるですね。んー大きな人が良いとか、ユーモアのある人が良いとか、まあ、植木仁やら谷啓のようなあれにちょっとこうしまりのあるような人が良いとかという風に、様々な事をまあ自分勝手に書いてるんです。自分勝手というかまあ、確かにそういう書いてあるような人はじゃあ皆に好感を持たれる人ばっかりだと思うのですけれども、んー、私がずーっとその読ませて頂く時に私も考えたんです。私はどういう人に好感を持つだろうかと。皆さんはどうでしょうか?そういうアンケートが出されたら、私はこういう人というのが皆さんの心の中に一つのイメージというのがあるだろうとこう思うのです。私はあの、実はそれを私も、私はこういう人が好きだとか、あーこういう人が好感が持てるという、あーまあ、同感の人がるものと期待して読んだ。ところがなかった。私はですね、あの「人を軽う見ない人」。もう私はもうこれに人を軽う見ない人は本当に私は好きですし好感が持てますですね。どんな格好が立派であってもです、どんなに、どんな例えばユーモアの低い人にでも、まああの、実意を持って丁寧にですね、どんなに素晴らしいような人でも、人を軽う見るような人はですね、もう本当にふるふる好きませんですね。

 皆さんはどうでしょうか、皆さんはどういうような人に好感が持てれるだろうか。私はところがそういうのは一つもなかった。ね、「人を軽うみな」と「軽うみたらおかげはなし」とこう仰る。ですから、どうでも私達がですね、もうこの人を軽う見らんですむような私達にならにゃあいけませんです。でなかったら神様に好かれんです。どんなに、例えば素晴らしい修行が出来てもです、どういう心の例えば美しかってもです、ね、どういう事が立派に技が出来てもです、器量が良かってもです、もう人を軽う見る人は私はほろほろ好きません。それを極端にある人があります。先日、私は御理解の中に申し、その時には私は名前もいわずある方と言うて私お話したんですけれども、久留米の田村さんが3,4日前お参りしてです、この13日会の翌日ですから、14日の日に朝参ってみえた。13日の日にここで本当におかげを頂いてからもう、色々自分も意見発表させてもらったりして、あーもう有り難いと(?)思って帰ったんですね。ところがその家内がもう目をこんな(?)ようにしてその、なんか悲しんでおりますもんですから、どうしたかと。もう私はもう本当にはがゆうして、もう残念でたまらんというて言われるわけですね。それがもういかにも、そのあんたが取ったと言わんばかりにその、泥棒を負わせられた、「いや、あんたとは言わん。もう気分悪して下さるなち言われるのですけれども、あんたの他に誰もきとらん」ち言うて言われるそうです。「あなたが見えた時に、買い物カバンの中に財布が入っておったでしょうが」ち。「あれが無くなったっ」ち。田村さんはそれを知られないそうです。奥さんは。そこに行商に行かれたんですね、そして、(?)買うてもらってから、その後の出来事。その田村さんが帰られた後に無くなった事に気がつかれたと奥さんが。それで、元は(?)に同じ、まあ、程度の方で一緒に仕事をしておった方なんですね。ですからその、んー余計はがいいわけ。「もう一晩中眠られなかった。家内がそういえば私まで、一晩眠れずに腹が立ったというてその、こういう時に先生どういう風に信心で頂いたら良いでしょうかと、13日の日に有り難い、有り難いと思うて帰らせて頂きましたら、帰ったら途端にそういう事でした。夫婦のものが夕べは本当に眠れんように腹が立ったり、もやもやしたりしてから、もう本当に殴りこんで、殴り込むち、その、どうかその言うていきたいようなその、気がした」というてお届けされたんですね。

● そしたらんー私の心眼にあの、「総て」という字の公と書いて心という字を頂くのですね。いわゆる、大きな心を持てという事。お前が大きな願いをしよろうがと。大きなおかげを頂きたいと思いよろうがと。そんなら、おかげの受け物、心が大きくならなければ出来んじゃないかと。その位な事、お前が取っておるならいざ知らず、ね、お前が取ったのが例えば暴露したかなんかというならば、寝られんごとあろうけれども、自分が取っていないのだから教祖の神様の御教えの中にも「乞食じゃというても、もろうて歩かねばよし」と「泥棒と言われても人の物を取らなければ泥棒ではない」とね、「顔、顔は洗ってやる」と仰るではないですかと。ね。本当に信心のない人がはしたない人が、いかに貴方が取ったといわんばかりのようなことを言うて、相手もそれが分かりますように、また、その位言われてもです、いわば自分が平気でおれれるような、信心の状態になる。だからあなたが大きなおかげを願おうと思う、願っておっても、その位の事が眠れん様に腹が立つというならば、大きなおかげは受けられんと悟らにゃいかん。ね。そしてそれがもう、平気でおれれる豊かな、大きな心にならにゃいけんというような御理解だった。そして、次にあの総てという字ですね、横にあの糸偏が書いてある。もう一切が神様との繋がっての事だという事。信心をさせて頂いておってかわった事が起こってきたら、おかげと心得てと仰るですから、はあ、神様これで、そりゃはがいい事ではある、けれども、「これで自分の心を大きくして下さるとばいな」と、「おかげの受け物を大きゅうして下さるとばいなあ」と、思うたらこれがはれるんだという事。

● ね、信心ちゃ有り難い。これはれる。先日も私お道の新聞を読ませてもらいよりましたらね、ある教会の先生で非常にその、まあ、お話も出来なさらん、あまりごヒレイも立たん。それでも実意丁寧な先生らしいんです。それがある会合に出られて、いつものことだそうですけれども、その色々口達者の人がおってから、やり込められる。こうも言いたいと思うけれども全然、言えんなりに帰って来てです、それば思えば思うほど腹がたってたまらん、あれがああ言うたと思うただけでも腹が立ってたまらん。とうとうご神前に二時間も三時間も、自分の不甲斐なさをです神様を前にしてはがゆうして、はがゆうして堪らんちいうてその泣きながら御祈念をしよんなさったら神様がですね、天の一角から声があった。そして、神様の仰る事にです、あの、「賢いものは神の用に使われん」と仰ったそうです。気が利いた人です。いわゆる。もう、気が利いた人程、得てしてその、人を軽く見たりするわけなんです。ね、金光大神の取次ぎではなくて、自分が取り次ごうとするんです。ですから、もう、本当に賢い、まあいうなら、どんな位なもんでなからなければ神の用には使われんと仰った。それを聞いた途端に心がすっきりしたというような事が書いてあったんですけれどもね。信心ちは神の一声です。もう、田村さんではないけれども「親先生それを聞かせて頂いてからもう本当すっきりしました」ち。あくる日も参ってきてから「それを一言家内に言いましたらもう本当にそうでしたね」ち。「こっちが取っておるもんじゃなかけん、ね、ほんに神様が大きな(笑)為に、さあこれでも自分の心の中に泳がせれるか、とこう神様が言うて下さったいう事になったら、それだけで心がすっきりした」と言うてまあお礼、お届け、その翌日あっておりましたんですよね。これは皆さんでも同じ事。大きなおかげを願うておるのならば、心が大きくならなければ、大きなおかげは受けられんですよ、この位の事で苦になる。この位の事であれがああ言われたというて腹が立つ様な事では、はあ自分はこの位なおかげしか頂かれんという事になるんです。

 ね、どうでも一つおかげを頂かなければなりません。もう気の利いて色々出来る人程、人を軽うみます。ね、信心でいう私は「人を軽う見な」という事はまあ色々な意味もあることだと思いますけれどもです、もう、人を軽う見らんですむ、ね、もう本当に、皆がどの人でもこの人でもです、良い人に見え、どの人でもこの人でもがです神様の氏子として頂けたり見えたりするような一つおかげを頂きたいと私は思うのです。

 ね、そのアンケートの中にね、様々なその、百人百様ですね。自分はこういうタイプの人に好感を持つとこういうが。私は人を軽うみない人。人を本当にえー重く頂く人。人を見下げたりしない人。そういう人に私はその好感を持つ。同時に私自身もですそうあらなければならんなとその事にまあいつも勤めさせて頂く訳でございます。皆さんがどうか、その自分の周囲に軽蔑するような人がもしあるとするならです、貴方はその人をもう軽う見ておられるわけなんですから。ね。どんなに軽蔑しなければならない様な人でも、よくよく見よってごらんなさい。そこは軽蔑しなければならん事かもしれんけれども、それ以外のところに自分よりもとても、えらい素晴らしいところがあるもんですよ。ね。どうでも一つおかげを頂かねばなりませんですよね。

 そしたら、今日、田村さんが又今朝お参りしてみえてからですね、「先生おかげを頂きました」ち言うてから今朝言われる。「先日からお願いしておったら昨日あっちの奥さんが断りに見えました」ち。ね。それがその、真理教と言われるからお稲荷様でしょうね。お稲荷様(?)ところがお稲荷様がその奥さんをもう、ばさりか怒りなさったそうですたい。「お前は取ってもおらぬ者ば疑うちからち。お前の財布はどこどこの引き出しに入っておるではないか」ち言うてからおごりなさったそうです。ほんでもうその途端にですね、もう、お金はもちろん、始めから1500円のものだったからですね、どうでもよかったとこういうんですね。向こうの人としては。ところがその怒られてから初めてその自分が田村さんば軽蔑しておったという事がです、もうとにかく堪らんごと苦しゅうなってから、すぐそのお礼に出てきなさったそうです。そしてその言う事ですもん、やっぱお稲荷様はあたって当たらなかったですばいち。どこの引き出しに入っておるちいわしゃったばってん、入っておらじゃったそうです。財布は入っておるじゃったけれども、その、怒られたその事がです、その人の心の中に人を見下げた心を翻然として目覚めさせたわけなんです。私そん時にですね、その人は偉いなあと思いました。私はその人の為にまた改めてです、どうぞお稲荷さんはどこっちいう事は分からなじゃったろうばってんです、私は感じたです。ですから、どうぞそれが出てきますように、改めてお願いしました。その人の事を。ん。

 ね、例えば私共が本当に応援してから人を軽く見るようなことがありますたい。けれども、その後にはあ悪かったというたらです、ちったこの悪かったちゃお詫びでもされる位なその心が私は良いと思うんです。ね、早速その、財布は出てこなかったですけれどもです、「田村さんほんに先日はもういかにもあんたがとったと言う風な事を言ってから、本当に気分を悪くしなさったじゃろう」と言うてから、お詫びに見えられたというて今日おお礼、お届けを聞かせてもろうてですたい、ね、有り難いなあと私は思うのです。私共も本当にまねしなければいけん。信心がなかったちゃです、本当に悪かったと思うたらすぐその、詫びにでも行く様なあっさりした人だからです、恐らくいわばその、まあ、あんたがとったっちゃなかのと言わんばかりの事でも言われたんじゃろうと思うのですけれども、ね、信心をさせて頂くものはそこもいっちょ考えなければなりませんけれども、ね、人を軽くみておったなあと、どげんあちらがです、不愉快な思いをしなさったとろうかと思うたら私はすぐお詫びでもする位な気持ちが、信心をさせて頂く者の上には必要ではなかろうかと私は今日はお届けさせて頂いてから思うた。ね。それこそその私が、私はそうです。ね、本当にあの人を軽う見る人がふるふる嫌いです。ん。ね、「神様をまた人を軽うみたらおかげはなし」とはっきり断言しておられるのですから、ね、おかげを頂くためにも、神様の周囲がみんな素晴らしい人に、ね、分からせて頂く為にいよいよ私の内容と言うものの中にですたい、私のようなもの、いわゆる屑の子我という自覚を本当に分からせてもろうて、私が下の所にあればです、皆立派に見えてくるはずですから、ね、いよいよ自分と言うものを掘り下げなければならんという事が分かりますですね。       
                                     どうぞ